「私の主」
私の神様、私はあなたに信頼します。
(「詩篇」25篇2節より)
信仰を通して私たちには贖い主との絆があります。
キリストを信じる者は皆
「キリストは私を愛し、御自分を私のために渡された」
(「ガラテアの信徒への手紙」2章20節より)という確信を得ています。
この信仰の絆が私を救い主に非常に近しく結び付けるので
「私の愛する方は私のものであり、私はこの方のものです」
(「雅歌」2章16節より)と私は言うことができるのです。
私たちはイエス様をたんに知識として知っているのでしょうか、
それとも私たちの心はイエス様に結び付けられているでしょうか。
ここに大きな違いがあります。
キリストは死にました。
これは歴史です。
キリストは私のために死んでくださいました。
これは信仰です。
私たちは安心して
「イエス様は私の救い主であり、私はイエス様のものです」
と告白することができます。
J. A. Bengel という有名な神学者は祈りの中で
「そうです、神様、あなたと私を結びつけるのは今まで同様、この絆です」
と言ったそうです。
このような信仰が神様と手をつないで歩むように助けてくれます。
この個人的な信仰は
「主は私の牧者です。私には何も欠けることがありません」
(「詩篇」23篇1節)と書いたときのダヴィデにもありました。
私が主のものであり主が私のものであるとき、私たちは大丈夫です。
聖なる洗礼を通して
永遠の契約を私たちと結んでくださった方は忠実を貫かれます。
この方は私に力をくださいます。
(祈り)三位一体なる神様、
私たちをあなたの義によって覆ってくださったイエス様、
活きた信仰へと私たちを新たに生んでくださった聖霊様、
私たちを御自分の子どもにしてくださった御父様、
どうかあなたの契約の中に私たちを保ってください。
そして私たちが死ぬまであなたに対して忠実でいられるように
どうか助けてください。アーメン。
(関連聖句)「ガラテアの信徒への手紙」3章7~18節