2017年10月18日水曜日

マルティン・ルター「活きるために」「ヨハネによる福音書」1章29節(その3)

翌日、ヨハネはイエス様が彼のところにやって来られるのを見て、
「見なさい、世の罪を取り除く神の小羊を」、と言いました。
(「ヨハネによる福音書」129節)(その3)

人は自分の罪を、
以前にそれを実際に行ってしまった時と同様に、
今もまた自ら進んで(主に)告白しなければなりません。

かつて罪を行って堕落するのを恥じもしなかった人は、
自らの堕落を(主に)告白して
そこから再び立ち上がることも恥じてはいけません。
 
罪は死に比較することができます。
罪は、上着を外して片付けるようにして、
いともたやすく脱ぎ捨てたり投げ捨てたりできるようなものではありません。
それどころか、
罪は肉と霊の中核を貫通しているものだからです。

罪に躓いたのなら、あなたは心から、
「私は罪を犯しました」、
と言うことができます。
その時には神様も、
「私はあなたの罪を赦しました」、
とおっしゃることができます。

しかしそれとは逆に、
あなたが自分の罪を弁解したり秘密にしたりするのなら、
神様は、
「私はあなたの罪を赦すことができません」、
とおっしゃることでしょう。
 

神様は隣り人の罪を赦さない者を憐れむことはないし、
その罪も赦されません。

それと同様に、
「隣り人の罪を赦し
隣り人からも罪の赦しを乞い願う」
という(信仰の)実が伴わない場合には、
そのような人の信仰もまた正しいものではありえません。

このことを正さないかぎり、
人は神様の御前に出ることが許されません。

信仰がこの実を結ばないなら、
それは正しい信仰ではありません。