2017年5月15日月曜日

マルティン・ルター「活きるために」「イザヤ書」53章4~5節(その3)

本当に、
この方は私たちの病を負い、
私たちの痛みを担われたのです。(中略)
この方は私たちの罪過のために傷つけられ、
私たちの不義のために砕かれたのです。
罰はこの方の上にふりかかりました。
それは、私たちに平和をもたらすためでした。
この方の傷によって私たちは癒されたのです。
(「イザヤ書」5345節)(その3)

モーセの律法の第一戒に対する最高の忠実さは、
順境において神様を畏れ、逆境において神様に信頼することです。
しかし、
神様をないがしろにしている者はこのようにはできません。
彼らには信仰が欠けているので、
神様が彼らをいつどのように助けるべきか、
彼らは誰を通していつ救い出されたいのか、
に関して神様に指図します。
なぜなら、
「肉」(罪深い人間の本性)というものは、
神様のことをまったく聞きたくも見たくもないし、
その救いの手を受け入れようともしないからです。
それどころか、
自分の力や行動の中に逃げ込んでしまい、
神様からの助けを待ち望んだりはしません。
それゆえ、
危険が迫ると、恥じ入り、絶望してしまうのです。


神様は御自分に属する人々を
常に窮乏やあらゆる危険の中に投げだされますが、
彼らがその中で堕落するようにはなさいません。